確信するなら盲信か妄信以外ない

確信できることは一つもない。
ああしたらこうなる。こうだからああなる。
因果論が信用できないのは、繰り返すあのポリリズム的・歴史的・経験的事実からというよりも、論理の出発点はそもそも決められないから。
なぜ?と問うことはできる。いつでもできる。ずっとできる。
せやけど答えの理由や根拠に対して「より論理的か」の指摘はできるけど、絶対はない。
そこで普遍を志向しないのが普通。
そこでバイアスのかかった主観で仮決定を繰り返すのが吉。
でも思考停止を避難する気はない。一ミリもない。
むしろ何かも全部忘れて毎日酒に溺れてしまえれば一番いい。
あほか、人間は動物じゃないぞ。
いや、人間は動物じゃないの。
偉い人が全体がラクになるために(個人的興味のためだけに)新しいアイディアから創造といのべーしょんを繰り返すのは問題のマッチポンプを楽しんでるんだと言えないこともないから。
論考できないヒトを人間じゃないと言い切れる弱さも強さもないから。
でもやっぱり、世界や結節点・属性の束としての自己がどうなってもいいかを決めるのは自分だけじゃないからどっかで確信を受け入れるしかない。確信しろ。
結局、近代人っぽく物語を紡いで情熱的にやらかしてもいい。
流行にのって可能な限り仕組化してシンプルスマートスマートサーフィンしてもいい。
何も考えずうんこやおしっこを漏らしててもいい。
そのどれかを選ばないでもいい。明日の私は他人の臭いでもいい。
って話になる。
複雑系モテカワ不確実な現実をMARUGOTO受け入れてもいい。
MARUGOTOは受け入れなくてもいい。
ネタでもマジでもどっちでもいい。笑って誤魔化せればいい。
わーっと外部化されたものを、前とは違うやり方で、じっくり内部化する的な方向性だけ決めてもいい。
私と貴方がどこを虚構するかを味わう時間=人生が終わるまでの我慢大会。
しこって寝よ。