なんか書こう

整理したいという感情はどこからきたのか。
小学校高学年か中学生入りたての頃、サッカーノートとやらを書いて過去を振り返るということを意識してはじめてやったのを覚えている。
試合のフォーメーションやスタメン、ゴール結果などの事実を羅列することにはじまり、
ゴールを奪った・奪われた時に起こった具体的な現象から個人的な小さなパスミスまで事細かに記述する。
成果からどう反省し、今何が必要か、どんな練習が必要か、次の目標は何かなどを書きだして最終的には「先生に提出する」。
全ての思考やどんなチラシの裏に書かれた文章も他者との共有を前提にして書かれているものだから、「先生に提出する」という動機付け、あるいは体育会系の部活にありがちな問答無用の強制力が青少年にこの社会をうまく渡っていく習慣を仕組み化する機能が働いているにすぎない。
ああどうでもいい。
そうじゃなくて。
こういった向上や成長を善とする無邪気さ。前のめりの近代的価値観。
こんな風に相対化される以前の最も素直で柔軟な人生のピークと言える
時期ですら続かないことを問題の俎上に上げたい。
分かったことは、意識的にどんなスパイラルにも与しないで生きてくると、「本当に何も変わってない」という実感しかないことだけ。
で。
このままでいいのかな、と。
連続性の欠片もない人生で来たけども、と。
生きている、ということをどう定義づけるのかあるいは定義づけしないでもまだ生きていけるのか、と。
こうなる。
食うに困らないならこのままでいい。俺はこれでいい。
それは本当なんだろう。これは結論として強い。
力強い。居直りだの開き直りだレッテル貼り遊びはもちろんどうでもよくて、「これでいいのだ」は強い。
だがそうはどうも思えない。というとこが整理欲・分析欲の原点。
イラつきの向こう側に透けて見えているこの感傷は倫理観とか、道徳観とかなんだろうか。
そしてまた続かない。
立ち止まり忘れて、忘れては動き、動いては立ち止まるあり方。
不安定な状態を脱して安定したい。
目の届く範囲のモノゴトを理解した気になって不安を無くして安心したい。
現状を単純化して把握しオナニーをして眠りに着く。
そういったスパイラルにいる。

今生きていないと感じている。
そう決めることさえできない袋小路で、役に立たないことしかしたくなくなる。
その境地で笑いは救いであって、麻薬でさえある。
このままじゃ本当にいけないのか。
変わっていくのか。
どこまで決めていいものか。
境界は非常に曖昧で、時間すら超えて。
誰もがそのままで何も引かず加えず何ができるかを志向してしまうということ。

根源的なお題だ。
とってもプリミティブな部分。
端折らないで把握したいという貪欲で傲慢な贅沢。
ありのままで行って、なるようになった先に異議を申し立てることはしないのか。
しないだろう。
後悔ができない。
統一した思考に身を任せたいという欲求。

予め答えが存在する問題。
先に答えを見て考えるふりをする。
自ら仮説を立て検証をするという考えるという行為ができない。
こうではないか?
それを確からしいものにするには何を明らかにすべきか?
どうやって?
結果どうだった?
その営みを、意識して行ったことがない。

どうしましょう。